東名川崎インターそばにある土橋神社。この急勾配の階段を登ると小さいながらも立派な社殿があります。
入口脇の石碑。
綺麗な社殿です。
堂々とした狛犬さんです。
社殿の蟇股や木鼻、虹梁には立派な彫り物がされています。
木鼻には愛嬌のある獅子の顔が彫られており、虹梁には鶴と松。
昨日は土橋神社「秋の大祭」が開催され、無形文化財に指定されている禰宜神楽(ねぎ かぐら)舞の奉納がありました。毎年、夏の7月14日と秋の10月6日に開催されています。
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「いざ鎌倉へ!」
落ちぶりたりといえどもこの源左衛門、鎌倉殿の御家人として、もし幕府に一大事がおこれば、千切れたりとも 具足を着け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に鎌倉に 馳せ参じ、一命を投げ打つ所存でござる!
有名な謡曲「鉢の木」に登場する佐野源左衛門常世の、これまた有名なセリフでございます!
鎌倉時代、幕府に重大事が起こると御家人が「いざ鎌倉へ」と駆けつけた故事から、〈一大時が起きたときには、素早く対処できるように〉という意味ですが、いまでは死語で使う人もあまりいませんネ!
地元に残る「鎌倉古道」
「いざ鎌倉」へとなった時に、御家人達が鎌倉へ向かうために整備された道路網が「鎌倉古道〈街道〉」と呼ばれたもので、地元の土橋と犬蔵の境にある鎌倉古道は鎌倉街道中道(なかつみち)と呼ばれ、鶴岡八幡宮から北鎌倉・鶴ヶ峰・川和・荏田・犬蔵・稲城・府中へと続いた53kmの道です。
鎌倉街道中道(なかつみち)と呼ばれている道は吾妻鏡にある中路にあたり、源頼朝が奥州征伐の際に通ったとされる道で、頼朝がこの道を通ったときに橋がなかったため、家来に命じて丸太を渡し、土を盛り、橋を掛けたことから、土橋という地名になったという言い伝えがあります。
今では、このあたりも造成されてしまい、当時の趣きを偲ぶものはありませんが・・・・・。
自宅から5〜6分の所に有馬川という小さい川が流れています。宮前区鷺沼地先に源を発し、有馬地内を流れ野川地先で一級河川矢上川に流入する準用河川・普通河川です。川の延長は約5km。1時間もあれば歩ける距離です(まだ歩いたことはありませんが・・・・)。
その有馬川に「鶴の橋」「亀の橋」という我社の社名「鶴亀工房」と同じ縁起の良い名前の橋があるというので、散歩がてらに訪れました。
自宅から歩くこと20分位、市営有馬第一団地を過ぎた所に「亀の橋」を発見! 欄干には「亀の橋」の銘版と縁起のよい「蓑亀(緑毛亀)」のレリーフが飾られています。ちなみに中国から伝えられた縁起物の蓑亀は甲羅に藻がはえた亀で「長寿のシンボル」として珍重されております。
そして「亀の橋」から2〜3本の橋を通り過ぎた所に、「鶴の橋」を発見! こちらは橋の名前の銘版はありますが、残念ながら鶴の絵のレリーフはありませんでした。
もうちょい涼しくなったら散歩がてらに起点から終点まで歩いてみますか・・・・。
自宅から有馬さくら公園を通って、川崎と横浜の市境を過ぎた所に「うとう坂(別名 血流れ坂)」と呼ばれる不気味な名前の坂道があります。「うとう」とは峠などの急傾斜で掘割状の地形による空洞(うとう)からきた説や、疎う(うとう)「気味の悪い」に由来する説などがあるようですが、ここの場所も峠の上から急傾斜の坂道になっており、昔は「峠の茶屋食堂」というお店がありました(今はコンビニですが)。
また、いつの時代かはわかりませんが付近に牢屋があり犯罪人が処刑され、その血がこの急斜面を流れたとか・・・。
まぁ、そんな血なまぐさい話はよそに、今では横浜市だけあって洒落た街並に変貌しておりますが。
地元 宮前区の「川崎市青少年の家」の裏手に「お化け灯籠」と呼ばれている灯籠があります。上野の東照宮にも大きさが6メートルもあることから「お化け灯籠」と呼ばれている灯籠がありますが、川崎の「お化け灯籠」は夜な夜な歩き回るという怖〜〜い灯籠です。
昔は、東京の港区六本木にあった日本陸軍東部62部隊の将校集会所の庭に置かれていたものですが、夜になると灯籠が歩き回るという噂が立ち始めたとか・・・・。 そして昭和17年、部隊が現在の川崎に移動した際この灯籠もいっしょにつれてきたそうですが、その時灯籠が歩き回るという噂が立たないように、足の部分を埋めてしまったそうです。ちょっと残念ですネ。 なぜ灯籠が夜になると歩きだしたのかは不明ですが、一度歩いているところを、お目にかかりたかったです(怖いもの見たさですが・・・)。
地元宮前区の野川にある野川神明社に今年の3月、念願であった韋駄天(いだてん)像が建立されたとのことなので、見学へ。 ここ野川神明社は韋駄天を尊神として神職が常勤している全国でも希少な神社だそうです。近年では韋駄天を尊神としていることから市民マラソンや陸上競技選手のパワースポットとしても有名だとか。奉納される絵馬にもかわいい韋駄天が描かれており、完走祈願や勝利祈願が目立ちます。
韋駄天はもともとバラモン教の神様でしたが、仏教に取り入られ仏法の守護神となりました。 仏舎利を盗んで逃げた悪い鬼を追いかけて取り戻したことから、足の早い神とされたそうです。そこから速く走る人のことを「韋駄天走り」と言うようになったとか。
ちなみに韋駄天が釈尊のために方々を駆け巡って食物を集めたとの俗信に由来して馳走(ちそう)という言葉ができたそうです。そして感謝の意味で「御」と「様」をつけて、食後の挨拶の御馳走様(ごちそうさま)になりました。 「今日も美味しいものを御馳走様でした・・・・!」
昨年の12月8日で、真珠湾攻撃で火蓋をきった日米開戦から70年。大戦の記憶も薄れゆく今日ですが、街中にはひっそりと大戦の爪痕が残っています。写真は地元にある旧陸軍の境界標石とよばれるものです。現在ある宮崎中学校や川崎市青少年の家、虎の門病院分院の場所には旧陸軍の東京管区東部62部隊が置かれていたそうです。宮崎中学校には東部62部隊の本部、川崎市青少年の家には将校集会所、虎の門病院分院には兵舎が設置され、周辺には衛兵所や被服廠、弾薬庫などがあったそうです。また東部軍司令部直轄の溝ノ口演習場が作られたため、鷺沼、宮崎台、向丘、菅生、土橋一帯は軍に土地が接収され住民は立ち退き命令をうけたそうです。写真の境界標石はその演習所の境界を示すために埋め込まれたものです。いまでも探せばあちらこちらに残されているそうです。(渋谷にも東急ハンズのそばにあるとか。)
宮前区役所で「宮前歴史ガイド」というものをもらって、地図片手にやっと探しあてましたが、夏になれば草木に埋もれてその存在すら忘れられてしまいそうです・・・・・。 10年ひと昔、70年前といえば大昔ですが、忘れ去ってはならない大戦の記憶です。
今日は関東の「正倉院」といわれる、神奈川県最古の寺「影向寺(ようごうじ)」へ行ってまいりました。11月3日の今日は「薬師如来の縁日」がおこなわれ、国指定重要文化財の薬師如来座像等を間近に参拝することができます。影向寺は奈良時代の天平12年(740)、聖武天皇の命を受けた行基によって開創されたと伝えられていますが、近年の調査結果により、創建の年代はさらに古く白鳳時代末期(7世紀末)遡ることが判明しています。特別拝観できた本尊の木造薬師如来両脇侍像(薬師如来坐像・日光菩薩立像・月光菩薩立像)は素朴ながら柔和で優しいお顔などは藤原朝時代の優雅な香りを感じます。また薬師如来の眷属の十二神将の鬼気せまる迫力も見事です。お土産で購入した影向石最中もたいへん美味でした。